ヤドカリはカリノヤド

  • 2019.12.30 Monday
  • 18:20

 

ヤドカリはカリノヤド

 

1.
毎朝、海辺にいって朝食を食べるのが日課だ。海辺に腰かけると、たいていヤドカリが足元うろうろしている。不思議なもので、浜辺を歩いてるときにはヤドカリの存在に気づかないこともあるが、座ってみると足元にヤドカリがうようよと。

 

ヤドカリを見ながら、ヤドカリ・・カリノヤド、「仮の宿」と、言葉遊びが思い浮かんだ。
仮の宿といえば、鴨長明の方丈記。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」
その先に、
「また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。」
と、仮の宿り、仮の宿という言葉が出てくる。
ここの現代語訳としては、『家というのは、そのうち、壊れたり火事で焼けたりするような、いつまでもあるものじゃない。少しの間、身を寄せる、仮の宿のようなものだから、豪華にする必要はないよ』ということのようだ。

 

しかし、ここでは、仮の宿を抽象的にとらえてみたい。すなわち、仮の宿とは身体、肉体のこと、そこに、心が間借りしてる。そんな、抽象的な解釈を話してみたい。

 

2.
海辺に座って考えた。足元のヤドカリに心はあるかと。
ヤドカリが、けんかをしていたり、たくさんで集まったりしているのを見てると、ヤドカリにも心があるような気がする。感情や思考がそこにはあるような気がする。
たとえば、哺乳類なら、確実に、考えたり感情を持ったり、心はあるだろう。では、逆に、下等な動物ではどうか。単細胞動物に心、意思はあるか。

単細胞生物には心は無いという説。
そもそも、心とは何かというと、脳の機能だという医学的な解釈がある。
たとえば心臓という組織の機能は血液の循環だ。比して、脳という組織の機能が心。


そう考えると、脳、神経系の組織がないことには、心は無い。細胞組織が発達しないことには、神経組織もできない。神経組織が無ければ、その神経組織の機能である心も無い。
すなわち、単細胞生物に心は無い。

 

単細胞動物のゾウリムシで、こんな実験があるそうだ。
ゾウリムシは暖かい所に集まったり、叩くと前進したりする。これは、ゾウリムシに心があり、暖かいところが好きとか、叩かれるのは嫌という感情があって、そうしてるのではないかと一見思う。
しかし、これは、温度や叩かれた刺激によって、ゾウリムシの内外の化学的な反応が変わって、機械的に動くだけということが確かめられてるのだそうだ。

 

しかしながら、単細胞動物から、だんだん生物が進化すると、脳のもととなる神経組織ができてくる。そうすると、考えたり感情を持ったり、心という機能が発達してくる。
では、進化して、最初に心が芽生えたとき、その生き物は、どんな感情を持ったのだろうか。地球に生まれた生命の、はじめての感情とはどんなものだったのだろう。

 

3.
人間には心がある。では、いつから心があるのだろう。先の進化の話ではなく発生学的な話として。
母親の胎内で、人間の元になる細胞が、まず単細胞としてできる。単細胞生物に心がないように、その段階ではおそらく心が無い。
それが、だんだん分裂して、からだの組織がつくられていく。その途中のどこかで、心が生まれるとしたら、いったいどの段階から心はあるんだろう。

 

はっきりした解ではないが、こんな話がある。
神経組織の中で、心の機能を持つのが、脳の中の大脳皮質という場所だ。


当初、その大脳皮質組織の元は、脳のヘリにはなくて、ラジアル繊維というものを伝って、脳の中心辺りから移動するのだそうだ。その移動は、先のゾウリムシの移動のように、化学反応的な動き、それを、マルコフ連鎖というのだそうだ。それで、ようやく脳のヘリにたどり着き、大脳皮質となって、考えたり感情をもったり、心の機能が開始されるのだそう。

 

余談だが、その、ラジアル繊維を伝って移動するということが、なかなか大変なことで、これをスムーズに移動できるかどうかで、生まれてからの頭の良さに違いが出るという説があるらしい。

移動には温度が関係するらしく、温度が低いほうがいいのだとか。過去、天才とよばれた人、ニュートン、コペルニクス、アインシュタイン、ハイゼンベルク、ホーキング、ノイマン、これらの人は、みな冬生まれだそう(アンシュタインは3月だが)。冬生まれの人には、天才の素質があるらしい。

 

話が横道にそれたが、大切なことは、人間に心が芽生えるのは、身体が出来上がってからということだ。

そして、また、この問い(興味)だ。人間に最初に心が芽生えたとき、与えられた身体の中で、どんな感情を持ったのだろうか。


既に出来上がった身体を仮の宿にたとえるなら、そこを借りてるのが心ということ。そして、身体を貝殻にたとえるなら、それを借りているヤドカリのようなものが心だという事ではないかと思う。

 

4.
ところで、輪廻転生という考えがある。身体がなくなっても心は、また別の身体に転生する、生まれ変わるという考だ。


こんなことを考えた。自分が誰かの輪廻転生で、自分の前世があるとする。その人が70歳で死んだ人だとしたら、私は1963年生まれなので、その70年前、1893年生まれ、その人は明治の終わりの生まれだと。
しかし、そこまで考えて、自分の前世が人間である保証は無いよなとか、前世は、猫かもしれないし、ヤギかもしれないとか・・。

 

たとえると、身体という貝殻ができあがって、それに心というヤドカリ本体が入る。やがて、貝殻がだめになると、次の貝殻にまた入るという繰り返し。それが輪廻転生ということか。
今の自分の身体も、次の後世へ心が伝わるまでの仮の宿だ。

 

5.
心が身体を借りてるという話をしたが、実は、逆に、借りてるのは心のほうで、地球という大きな心の一部を、自分の身体が借りてるのではないかと、考えたりもする。
そんな話も、また、機会があったら、詳しく語りたいと思う。
 

 

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