読書メモ:「シンメトリック・スメル」秋葉信雄
- 2015.05.28 Thursday
- 22:07
シンメトリック・スメル
これが正式な詩集のタイトルであるが、それよりも印された「両面香」という漢訳の文字が目に付いた。すなわち、先ず、「僕の中に落とされた一滴」は「香」という文字だった。
スメル
香。嗅覚は、五感の中で最も初めに発達した感覚であるという。その証拠に、嗅覚神経は、鼻の上皮から脳の中心部、海馬や扁桃体といった部位に直結している。海馬や扁桃体、これらは大脳辺縁系と呼ばれる、動物の進化の中では早くに進化した部分だ。それは、視覚や聴覚が大脳新皮質、いわゆる新しい脳につながっているのに相対する。
嗅覚と視聴覚は、旧い脳と新しい脳のつながりで相対するのである。新旧のシンメトリーだ。
視聴覚による新しい脳は、人間が思考を行う部位。つまり、視覚や聴覚で受け取ったものは、思考のバイアスをかけて理解される。だから錯視や空耳が起こる。それに対して聴覚は、思考のバイアスがかかることなく、脳の中心部にキャッチされる。だから人は嗅覚によりリアルな現実を感じられる。
シンメトリー
シンメトリーについては、著者のノブさんから種明かしがあった。対称。世の中のものは、右と左、上と下、大と小、暖と寒、対称からできていると。〈ところで、僕は電話というものが、ひどく苦手で、ノブさんからのせっかくの電話に、まともな受け応えができなくてすみません〉
この対称は、世の中を測る指針くらいに捉えれば良いだろうか。右と左との間には中間がある。対称は識別とは違う。右にあったものだって、自分がもっと右に移動すれば左になってしまうのだから。
両面香
詩集の第一章は、両面香とタイトルされている。この章のシンメトリーは時間だと思った。過去と未来の対称。それが春から秋への対称の中に並んでいる。
思い出の香りと未来の香り、嗅覚によるリアリティ。
最初の詩には、具体的な香りの描写は無い。しかし、桜の花びらに春の香りは確かに香る。儚いリアリティがこの詩集に誘う扉。「時間は桜色」だと語りながら、何時のことかもわからない、薄い桜色のリアリティ。
夏はソウルの雑踏の匂い。そして過去の匂いは強烈だ。センゼンの匂い、そして、部落の臭い。
そして章の最後の詩、シーユエシャン、キンモクセイ、ツツジ、イチョウの香に刺激され、読者は現実を突きつけられて、詩人とともに「旧友が最期を迎えた病院を目指し」「秋の長雨の中を駆け抜ける」のである。
塔底香
地上と地下のシンメトリー。もっと単純化すれば上と下の対称か。
人が水棲の生き物だった頃に、上と下の感覚を持ったという話があるそうだ。上と下は比喩としても使われる。格差社会なんていうバズワードも。
格差の底辺は、「地下の塔」か、それとも「報復パーク」の大穴か。いやいや、今、格上だなんて思ってたって「もう将軍はいないぜ」。
頭の上を見やれば、「飯田橋方面」の「雲の中から一機の戦闘機が 現れる」のだな。
でも、我々が住んでいるのは地下でも雲の上でもない地上。「総武線」のホームで「背中を押されて」しまったりするのだろう。
そこから「永遠に」「落ち続ける」「底」は案外優しくて。
幻街香
ユメとウツツのシンメトリーか。然し、掲載されている詩は夢幻の世界を語るばかり。夢幻の詩に香りの描写は無い。香れば其処にリアリティが生じてしまうから。「生首から滴る血」にも「犬を食べて」も「恵比寿のライブ会場」にも「天安門広場」にも香りは感じない。
夢幻の世界の中に、詩人の言葉が自由に踊る。この章こそ、ノブさん、秋葉信雄氏の真骨頂だ。彼の短説の世界に近い。彼の作り出す夢幻の世界に「オイデオイデ」と誘われたら、ああ、もう、章の最後ではないか。
歌舞香
歌詞と詩は、似て非なるものだと思う。しかし、それでもそれはシンメトリーなんだろうかと考えた。
自由に紡がれた言葉たる詩と、メロディに乗ることを宿命づけられた詞(ただし、メロディは無い。譜面も無い)。対称といえば対称?
違いますね。歌詞は、歌ってこその歌詞。この美しく装丁された印刷物と、歌う行為とが対称なのだと気づいた。歌う行為を示しての「舞」の文字か。
ならば歌いましょう。「Dead December」!ギターをかき鳴らして歌いましょう。ライブハウスの薄暗い灯の中、お酒の匂いタバコの香り、空気の温度、グラスの手ざわり、そんなリアルな現実を、歌と共に五感で感じて。五感の中でも嗅覚によるリアリティ。
すなわちは、歌うという三次元の動的行為と、東京水上倶楽部の美しい写真を表紙にした詩集とがつくる、シンメトリック・スメル。
最後に、ノブさんとの共作(勝手に)ながら、僕の名の入った「Dead December」の掲載いただいたこと、ありがとうございました。うれしいです。
これが正式な詩集のタイトルであるが、それよりも印された「両面香」という漢訳の文字が目に付いた。すなわち、先ず、「僕の中に落とされた一滴」は「香」という文字だった。
スメル
香。嗅覚は、五感の中で最も初めに発達した感覚であるという。その証拠に、嗅覚神経は、鼻の上皮から脳の中心部、海馬や扁桃体といった部位に直結している。海馬や扁桃体、これらは大脳辺縁系と呼ばれる、動物の進化の中では早くに進化した部分だ。それは、視覚や聴覚が大脳新皮質、いわゆる新しい脳につながっているのに相対する。
嗅覚と視聴覚は、旧い脳と新しい脳のつながりで相対するのである。新旧のシンメトリーだ。
視聴覚による新しい脳は、人間が思考を行う部位。つまり、視覚や聴覚で受け取ったものは、思考のバイアスをかけて理解される。だから錯視や空耳が起こる。それに対して聴覚は、思考のバイアスがかかることなく、脳の中心部にキャッチされる。だから人は嗅覚によりリアルな現実を感じられる。
シンメトリー
シンメトリーについては、著者のノブさんから種明かしがあった。対称。世の中のものは、右と左、上と下、大と小、暖と寒、対称からできていると。〈ところで、僕は電話というものが、ひどく苦手で、ノブさんからのせっかくの電話に、まともな受け応えができなくてすみません〉
この対称は、世の中を測る指針くらいに捉えれば良いだろうか。右と左との間には中間がある。対称は識別とは違う。右にあったものだって、自分がもっと右に移動すれば左になってしまうのだから。
両面香
詩集の第一章は、両面香とタイトルされている。この章のシンメトリーは時間だと思った。過去と未来の対称。それが春から秋への対称の中に並んでいる。
思い出の香りと未来の香り、嗅覚によるリアリティ。
最初の詩には、具体的な香りの描写は無い。しかし、桜の花びらに春の香りは確かに香る。儚いリアリティがこの詩集に誘う扉。「時間は桜色」だと語りながら、何時のことかもわからない、薄い桜色のリアリティ。
夏はソウルの雑踏の匂い。そして過去の匂いは強烈だ。センゼンの匂い、そして、部落の臭い。
そして章の最後の詩、シーユエシャン、キンモクセイ、ツツジ、イチョウの香に刺激され、読者は現実を突きつけられて、詩人とともに「旧友が最期を迎えた病院を目指し」「秋の長雨の中を駆け抜ける」のである。
塔底香
地上と地下のシンメトリー。もっと単純化すれば上と下の対称か。
人が水棲の生き物だった頃に、上と下の感覚を持ったという話があるそうだ。上と下は比喩としても使われる。格差社会なんていうバズワードも。
格差の底辺は、「地下の塔」か、それとも「報復パーク」の大穴か。いやいや、今、格上だなんて思ってたって「もう将軍はいないぜ」。
頭の上を見やれば、「飯田橋方面」の「雲の中から一機の戦闘機が 現れる」のだな。
でも、我々が住んでいるのは地下でも雲の上でもない地上。「総武線」のホームで「背中を押されて」しまったりするのだろう。
そこから「永遠に」「落ち続ける」「底」は案外優しくて。
幻街香
ユメとウツツのシンメトリーか。然し、掲載されている詩は夢幻の世界を語るばかり。夢幻の詩に香りの描写は無い。香れば其処にリアリティが生じてしまうから。「生首から滴る血」にも「犬を食べて」も「恵比寿のライブ会場」にも「天安門広場」にも香りは感じない。
夢幻の世界の中に、詩人の言葉が自由に踊る。この章こそ、ノブさん、秋葉信雄氏の真骨頂だ。彼の短説の世界に近い。彼の作り出す夢幻の世界に「オイデオイデ」と誘われたら、ああ、もう、章の最後ではないか。
歌舞香
歌詞と詩は、似て非なるものだと思う。しかし、それでもそれはシンメトリーなんだろうかと考えた。
自由に紡がれた言葉たる詩と、メロディに乗ることを宿命づけられた詞(ただし、メロディは無い。譜面も無い)。対称といえば対称?
違いますね。歌詞は、歌ってこその歌詞。この美しく装丁された印刷物と、歌う行為とが対称なのだと気づいた。歌う行為を示しての「舞」の文字か。
ならば歌いましょう。「Dead December」!ギターをかき鳴らして歌いましょう。ライブハウスの薄暗い灯の中、お酒の匂いタバコの香り、空気の温度、グラスの手ざわり、そんなリアルな現実を、歌と共に五感で感じて。五感の中でも嗅覚によるリアリティ。
すなわちは、歌うという三次元の動的行為と、東京水上倶楽部の美しい写真を表紙にした詩集とがつくる、シンメトリック・スメル。
最後に、ノブさんとの共作(勝手に)ながら、僕の名の入った「Dead December」の掲載いただいたこと、ありがとうございました。うれしいです。